私は王宮を出る。
これから、病院の方に立ち寄り、プリシラの母親の状態を見て帰るつもりだった。
かつて、私が住んでいた家は改築されて、弟ファウナとその妻フロラの新居となっている。
ファウナは、クリスティーナに初めて会った時に、聞かれるままに、素直に名前を明かしてしまった。幸運なことに、操られはしなかったが。しかし、弟の素直な性格を、彼女がお気に召してしまったらしく、それからずっと、ずいぶん可愛がられて今に至る。
可愛がるというのは彼女側の表現であり、ファウナにとっては苛めということになるのだが。
私の住居は別にある。
そこには、よくファウナが遊びに来る。
クリスティーナは、来ない。王族と魔法使いとは相容れない。血を混ぜると、子は魔王になってしまう。魔王は、国を滅ぼす。
仕事場だけでの付き合いだ。
それでいい。
後にも先にも、二人で暮らしたのは、あの二日間だけだった。
昔の王宮は、もうない。
彼女が落ちた王宮は、もうないのだ。
十五年ほど前、ファウナの妻フロラの父である、故カールラシェル教授が造ったからくりを組み込んで、今の新しい王宮ができたのだ。
だから、クリスティーナと私との、秘密の二日間は、本当に、二人の心の中にしか存在しないのだ。
王立病院に入り、内科の病棟に行った。
プリシラの母親は、そこに入院していた。
クリスティーナの魔法により、治癒してしまったから、彼女がなんの疾患にかかっていたかは定かではないが。婦人科系の疾患ではないかと推測される。内科病棟にいるのは、現時点での入院理由が、栄養失調によるものであるためだ。
病棟の看護士から、彼女に聞いた身辺の記録を見させてもらった。 それによると、彼女は幼い頃に捨てられて、年齢は不詳だがおそらく三十歳前後。今まで、独りで細々と生きてきた、ということだった。プリシラを産んでから体調を崩し、質素な生活すらままならなくなり、住処を追われて、あの公園に身を寄せていたという。最低限の生活を保護するための公的制度があるのだが、周りから何も教えられていない彼女は、それを知る手段すらなかった。
病室は、個室だった。
「こんばんは。プリシラのお母さん」
入っていくと、点滴を受けていた女性が、身を起こした。
「起きないで、そのままでどうぞ。具合は、いかがですか?」
ベッド脇に立ち、微笑みかけると、プリシラの母親は涙ぐんで両手を合わせた。伸び放題になっている黒髪の、黒目がちの瞳の女性だった。
この女性が、あの見事な金髪の魔法使いを産んだのだ。やせ細り、頬がこけてはいるが、死にいたる病からは回復していた。
「ありがとうございました。痛みも苦しさも取れて……夢のようで。なんとお礼を言ったらいいか」
私はきっぱりと「いいえ」と言った。
「礼には及びませんよ。助かってよかった。私は私の仕事をしたまで、そして、魔法使いは魔法使いの仕事をしたまでのことです。あなたは、ゆっくり休んで、元気になってください」
涙を流しながら微笑んだ彼女は、しかし、次第に不安な顔になり、「あの、」と切り出した。
「娘はどうしていますか?」
私は安心させるように微笑んでうなずいた。
「大丈夫です。あなたの病を治した魔法使いが、大切に保護していますから」
「よかった、」
また、ありがとうございます、と言って、私に手を合わせ、だが、再び、不安げな顔になった。
「……あの、それで、あの子は、魔女ですが、どうか許してやってくれませんか? 私の家族は、優しいあの子だけなんです」
私は、彼女の肩に、手を置いた。
「お母さん、プリシラは魔女ではありませんよ」
「え? でも、そんな、……あの子は、たしかに満月の夜に生まれて、」
彼女は、私の顔を、じっと伺った。間違いなくうちの子は魔女なのに、この医師は、どういうつもりでそんなことを言い出したのだろう、と。
私は、彼女の不審感をぬぐうように、ゆっくりと話した。
「プリシラは、あんなに小さいのに、もう魔法使いなのだそうです。王宮魔法使いがそう言っていました。だから安心してください。プリシラには、誰も何もできはしません」
「まほうつかい?」
私は力を込めてうなずいた。
「そうですよ。お母さん」
「……魔法使い、って、私の小さなプリシラが?」
事態を飲み込めないでいる。あのクリスティーナですら驚いていたのだから、しかたのないことだ。
根拠はないが、私は、休息が必要な彼女を安心させるために、また、私自身がそう信じたいと思うがために、この孤独だった女性に、こう伝えた。
「きっと、プリシラは、神様から、独り生きてきたあなたへの、素敵な贈り物だったのかもしれませんね」
|