プリシラは、彼女の手を握ったままだった。
プリムラは、彼女の頭部の近くに膝をついていた。
私は、クリスティーナに襟首をつかまれて立ち、彼女たちを見下ろしていた。
プリムラは、淡々と、魔女に伝える。
「お前は、存在するだけで駆除される魔女。生きるために、死んだように身を隠し、死から逃れるために、死んだように生きる」
皮だけの魔女は、けいれんした。
「偽りの希望を持たなければ、苦痛しかなくなる。だから、偽りの希望を信じて、絶望して、真珠になり、苦痛しかなくなった」
魔法使いは、魔女の頬をなでた。
「お前には死の苦しみしかない」
プリムラの顔は、この魔女の生涯を映してやっているかのように、笑みの気配もなく、硬く凍っていた。
「私が、お前を救ってあげる」
冷えた銀の瞳が、眼球のない顔を見つめる。
「苦しみの命を、奪ってあげる。それは、私の血となり、肉となり、力となって、私の命に変わる。お前は、私になる。お前は、お前ではなくなる」
魔法使いの言葉に、プリシラが握っていない右手の皮が、プリムラに、ふらふらと差し出された。
プリムラが、笑った。
「そんな屑みたいな命、私に寄越しなさい」
魔法使いの輝く白い手が、魔女の手を引き寄せた。
「さよなら、お姉ちゃん」
プリシラが、手を放した。
そして、魔法使いは、魔女を、食った。
私は、思わず、口を抑えた。
魔女狩りとは、つまり、外見的には、人食いと同じだ。
職業柄、人体の内も外も見慣れているが、この光景には耐えられない。倫理の問題だ。
顔を背けようとする私を、クリスティーナは許さなかった。
「よく見て。目を逸らさないで。これが魔女狩り。不幸まみれの魔女の命を、こうやって奪って、魔法使いの力に変えるの」
足が震え、膝がわらう。
魔法使いが私の襟首を掴んでいなければ、私は、足で地を踏みしめることもできなくなっていた。
私は、歯をくいしばった。
見ていると、まるで自分の口に入っていくようで、嘔吐したくなる。
それを叱るように、クリスティーナが私の襟首を、きつく掴みなおした。
恐慌した私に、気付けの冷水を飲ませるように、怜悧な言葉を聞かせる。
「狩った血肉は力になって魔法使いの身に付くわ。同時に、魔女の記憶も、残らず魔法使いのものになる。魔女は、魔法使いの一部になるの」
……記憶も?
そんなことがありうるのか?
「今、クソガキの頭の中では、その魔女が真珠になるまでに味わったことが、刻み込まれていっているのよ」
私は、クリスティーナを見た。
彼女は私を見ていなかった。
弟子を見ていた。
「そうやって成長していくの。魔女の命と記憶とを奪って」
魔法使いの目線を追い、私はまたプリムラを見た。
表情なく、魔女の皮を口に入れていく。
そばに、小さなプリシラが座って、じっと、静かに見つめている。葬送の場にいるように。
私は、聞いてしまっていた。
「クリスティーナも、」
声が出た。
「クリスティーナも、こうやって?」
こんな問いなのに、魔法使いは、何でもなく答えてしまう。
「好きだと言ったでしょう?」
王宮一の魔法使いは嗤った。
「私が、恐ろしい? 坊ちゃん」
「どれだけ、狩ってきたのだ?」
聞かねばいいのに、止そうと思っているのに、口が、勝手に動いてしまう。いや、それは欺瞞だ。
……知りたいのだ、私は。
彼女の中に、何人の命があるのかを。
あれから、私の家から出て行ってから、私の知らないところで、どうやって過ごしていたのかを。
だが、魔法使いは、私の気持ちを、答えでかわした。
「そんなこと、いちいち覚えていられないわ?」
はっきり覚えている。生まれた時のことを。
母の乳の味など知らない。産湯につかり、母の元に運ばれる前に、乳房を口に含む前に、目を開けさせられて、瞳の銀が見つかった。産婆と父は、これからどうするか話し合っていた。
「死産ということにして、壷に込めて潰し、河に流そう」
何を話しているか、わかっていた。だって、ずっといた腹の中にも言葉は聞こえてくる。
いいえ、言葉は必要ない。こんなに殺気が漂っていれば。
死んでたまるか。
生きなければ。
ついさっき産まれた私は立ち、開いていた窓から落ちた。
窓の外には、河が流れていた。
今夜のように、星がいっぱいに散れた夜空だった。
私は河原の草むらに身を隠し、草を食い虫を食い河の水を飲んで、生きた。
どうして生きるのだろう。なんのために。
草を食べるため?
虫やカエルを食べるため?
河の水を飲むため?
隠れるため?
人から逃げるため?
なんのために生きるのだろう。
わからなかったが、ただ、死にたくはなかった。
死にたくはなかったが、生きるのは苦しかった。
苦しみから逃れるために、一つでいい、一瞬でいいから、希望を探そうと思った。
身を潜めて、橋の上を歩く人々を見上げ、その微笑が私に向けられていると思ってみる。
河を行く舟人たちの歌が、私に向けられていると思ってみる。
しかし、人が来る気配を感じては、私は河底に身を潜めた。魚のように。
人間は私を殺す。
生まれてすぐに理解したこと。
けれど、私は人の情が欲しかった。
一つでいいから欲しかった。
あの笑顔、あの話し声、あの歌声、誰も彼も、独りではないからできること。河面に向かって笑ってみても、誰もいない深夜に歌ってみても、それは希望にはならなかった。苦しみは変わらなかった。
一つでいいから、人の情が欲しい。
笑って欲しい。
歌って欲しい。
なんのために生きているのか。
いつか、その一つを手に入れるため。
そう考えたら、生きていけた。
やがて、彼が、私のことを知った。
「河に精霊がいる。夜になると美しい歌を唄い、ささくれた人の心をやすらがせる」と。
夜な夜な、彼は河に現れて、身を隠す私を探そうともせずに、「私のために唄っておくれ」と呼びかけた。
私は彼の呼び声を、河に沈んだまま聞いた。対岸の岩場に身を隠して聞いた。河原の草むらで聞いた。
やがて、彼はこう言うようになった。
「姿は見せなくていい。私のために唄っておくれ」
一つでいいから、人の情が欲しい。
そのために、私は生きている。
私は、唄った。
私の命のために。
唄い終わり、隠れて様子を見ていたら、彼は夢見るように笑っていた。
「きっと、これは河の精霊だ」
あの笑顔は、私に向けられたものに違いない。
それだけで、よかった。
……このために、私は生きてきたのだ。
しかし、私は、それが得られても、死にたくないままだった。
彼は、たびたび訪れて、私に歌を頼むようになった。
やがて、「姿を見せておくれ」と、願うようになった。
「美しく唄う、あなたの姿を見せておくれ」
私は、隠れ続けた。
けれど、私は、唄い続けた。
それは、彼を失いたくなかったから。
もしも見つかったら殺される。
死にたくない。
けれど、彼を失いたくない。
私に情をむけてくれる存在を失いたくはない。
だから、私は唄い続けた。
それを、彼は、わかっていた。
ある夜、彼は言った。「姿を見せてくれないならば、私はもうここには来ない」と。
死にたくはない。けれど、生きる苦しみを忘れさせてくれるものを、失いたくもない。
彼を失わずに、命を失うか。
彼を失い、命をとりとめるか。
比べようとしたが、しかし、もう、私は、苦しいだけの命なんていらなくなっていた。
だから、私は彼の前に出て行った。
彼は、私に、笑いかけた。
そして、私と彼とは、同じことを繰り返した。
「私と歩いてくれなければ、もう逢わない」
「私の友人に逢ってくれなければ、もう逢わない」
「私に金をくれなければ、もう逢わない」
逢う場所は、河原から、橋の上になっていた。
私は魔女の姿を晒して、橋の上に立っていた。
いつ殺されてもおかしくない。
死にたくない。
けれど、生きる苦しみを忘れさせてくれるものを、失いたくない。
けれど、……苦しい。
彼は私と、あまり逢わなくなっていた。
私は、それでも、橋で待つ。
逢うために。苦しい命を抱えた私に、情を向けてくれる人に逢うために。
そんな時に、プリシラに会った。
病の母のために、私と同じ場所に立って、魔法を使う小さな魔女に。肥やしの袋を被って正体を隠し、氷のうに氷を作って入れる魔女に。
私は河を背にして立ち、必死で、彼がくる街の方向を見つめる。
プリシラは河に向かって背伸びをして立ち、懸命に、握った氷のうの中に小さな氷を作って入れていく。
「おばちゃん、」
あの子の方から声を掛けてきた。
「お姉ちゃんよ? そう呼んで」
「うん。お姉ちゃんは、いつも、ここで、何をしているの?」
私は、そのとき初めて、プリシラを、ちゃんと見たのだった。
なんて小さな魔女だろうと思った。
「私は、人を待っているの」
袋を被ったプリシラは、どうしてだか気遣わしそうな声で「そうなの……?」とつぶやくと、氷のうを振って、「まだ足りない」と言い、また河の方を向いた。
ことりことりと、袋に氷がたまっていく。
「お姉ちゃんは、いつも寂しそうにしているね?」
小さな声が向けられた。
私は、泣きそうになった。
「あなたは、寂しくないの?」
「ないよ。ママがいるもの」
「……そう」
私は、目頭をおさえた。涙があふれてきた。
どうしてだろう。
たった一つの望みを手に入れたはずなのに、私は苦しいままだった。
生きるのは苦しい。
彼と逢っているときだけは、いいえ、逢っているときも苦しくなっていた。
……生きるのは、苦しいことだらけだ。
「お姉ちゃん、こっちを向いて?」
顔を覆って泣いてしまった私に、プリシラが声を掛けた。
私は、嗚咽を無理に引っ込めて、応じた。
「……なあに?」
氷のうを握り締めた小さな子が、私を見上げていた。
「ママの魔法を、お姉ちゃんにも掛けてあげる」
「……ママ、魔女なの?」
「ううん。でも、魔法なの。お姉ちゃん、しゃがんで?」
言う通りにすると、プリシラは私の頭をなでた。
「『あなたは私の宝物よ。出会えたことが私の幸せ。生まれてきてくれて、ありがとう』」
生まれてきてくれて、ありがとう?
「生まれてすぐに殺されるはずだったのよ? その私に、あなたは、そう言ってくれるの?」
プリシラは、袋をずらして顔を見せると、笑ってくれた。
「私は、お姉ちゃんと会えて、嬉しいよ? だから、生まれてきてくれて、ありがとう」
彼女に会って、私の苦しみは、少し、癒された。
橋に行くのが楽しみになっていた。
来ない彼を待つのは苦しみだった。
けれど、
小さな魔女に、母のために一生懸命に氷を作っているプリシラに会うのは、楽しみだった。
私は、この小さな子のために、何かしたくなっていた。
河を行く舟人から、こっそりと銅貨を盗み、それをプリシラにあげてみた。
「これで、ママに何か買ってあげて」
プリシラは、瞬きを繰り返して、小さなくすんだ銅の塊を見た。
「これは、なあに?」
「お金よ。使い方は、お店に行ったらわかるわ。でも、正体がわからないように、気をつけてね」
「うん。ありがとう」
私の苦しみは、この小さな魔女に何かしてあげたいと思うことで、不思議と癒された。
そうだ。彼にも、そうしよう。彼に情を向けてもらって、苦しみをまぎらわすのではなく、彼に何かしてあげよう。
そうして彼と逢い続けた。
「私に金をくれなければ、もう逢わない」
「いいわ。また用意するわ」
「私に金をくれなければ、もう逢わない」
「いいわ。また用意するわ」
「私に金をくれなければ、もう逢わない」
「いいわ。また用意するわ」
彼に何かして、逢えるだけでいい。
そう思えるようになった。
けれど、
「もう逢わないと決めたんだ」
「そんな、」
動揺した女は、持って来た銅貨の入った、灰色にすすけた小袋を取り落とした。
小さな落下音が響いた。
「どうして?」
必死で集めたくすんだ銅貨が袋から逃げ出し、風格ある大きな石の橋に、あてどもなく転がった。
「あたしは、こうして一目逢えればそれでいいのに。それ以上は何も望んでないわ。……それでもだめなの?」
男は、嫌悪の顔で魔女を見て、首を振った。
「お前は誰かに愛されたいだけ。それだけなんだろう?」
「それだけ、ですって?」
女の目はふせられた。両のこぶしが強く握られた。
「それでも、そんなことでも私には過ぎた望みよ?」
「……ささやかだとでも、言いたいのか?」
怯える男の背後に、若い男が立っていた。偶然同じところにいて、ただ、河を眺めている様子だったが。
「いや、もういい。話したって無駄だ」
重いため息のあと、男は、女の心に刃を刺すように言った。
「俺は、俺の気持ちだけを大切にする」
男は、若い男を振り返り、「頼んだぞ」とつぶやいた。
「これでお別れだ。もう、二度と逢わないから、」
「!」
そんな、と、ひび割れた小さな悲鳴をもれた。
「あなたに逢う、それが、罪なの?」
初めて会う若い男が、小さく「同情するよ」と男に言いかけてから、近づいた。
「俺と一緒に役所に行こう」
「あたしが望めるものなんて、何もないの?」
だいそれたことは何も望んでない。逢えれば、それだけで。
それだけでよかったのに。
「あたしには、それすら、望めないの?」
すぐそこに立つ男への言葉だったのに、初めてあった若者にしか届かなかった。男は、逃げていく。
「普通の罪人なら情状酌量があるが、魔女は、魔女っていうだけで罪だ」
「私は、」
魔女は、後ずさりした。
絶望が、魔女を真珠に変える。
見ていた? 私のようには、ならないで。
プリシラの前で、私は橋から飛び降りた。
薄皮一枚残して、内側は全て真珠に変わっていた。
生きるのはなんて苦しいんだろう。
けれど死にたくない。
彼に逢うのはなんて苦しいんだろう。
けれど、また逢いたい。
たった一つだけ、希望が欲しい。
河に落ちた私は、彼とプリシラのために、銅貨を取ることを続けた。
舟を引き寄せて、銅貨を一枚盗んで、解放する。
小さな子どもを乗せた舟には、何もしなかった。小さな子どもは、プリシラを見ているようで、盗む気にもなれなかった。歌を唄って聞かせたら、喜んでくれるかしらと考えた。子どもは喜び、舟人も喜んでくれた。そしたら、私の苦しみが少し消えた。それからは、この舟が来るたびに、歌を唄うようになった。プリシラのときと同じに、彼らに会うのが楽しみになった。
でも、彼が、もう来なくなった。
いくら待っても、橋の上には現れなくなった。
けれど、私は、彼のために、銅貨を取る。
いつか逢える時のために。
たしかに絶望しているはずなのに、私は、だから、逢うことを願う。
彼のお陰で増えた苦しみを、彼が消してくれるのではないかと、願って。
でも、彼は来なかった。
違う。
私の苦しみを消してくれるような「彼」なんてものは、最初からいなかった。
私が、私にとって都合のいいものが、私の願望を満たしてくれる人間がいやしないかと思っただけ。それを、たまたま逢った彼に、押し被せただけだ。
私は、私の願望に惑わされて、絶望してしまった。
ああ。真珠になる前に、気が付けばよかった。
「その男のこと、始末してあげましょうか?」
なんて冷たい声。恐ろしい。人じゃないわ。魔女でもない。……なんて冷たい、そして、強い。
「あなたは、男を恨んではいないの? 真珠の方は、『誰でもいいから死んでしまえ』と言っていたわよ?」
違うわ。わたしは、ただ、誰か一人でいいから、私のことを、
「その願いは、絶望にしかつながらないわ」
私は、苦しみしかない命に、たった一つ、希望が欲しかっただけなのに。
「魔女に希望はない。独りで生きなければならないの。誰も彼も魔女の死を願う、それを受け入れないといけないの」
そんなことできない。
「できないから魔法使いになれないの。そして、いつか、こんなふうに狩られるの」
なんて酷いことを言うの。
「だから、生きていけなかった魔女たちは狩られて、魔法使いの中で一緒に生きていくの」
……そう、なの?
「もう、あなたは独りではないわ。あなたは私の命になった。孤独ではないし、苦しい命を続けなくてもいい。あなたの苦しかった命は、私が引き受けたわ。一緒に生きましょう。満たされなかったあなたの心を、私が満たしてあげる」
……そう、だったの?
「そうよ。さあ、あなたの名前を教えて頂戴。私の命になるあなたの名前を、」
私の、名前は、
「ローレライ」
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