まもなく、王宮魔法使いは身を起こした。
胸に、深く寝込んでいる医師を抱いている。
困った我が子を見るように、苦笑して、それでも愛しそうに、指先で優しく髪をすく。
そのまま寝入ってしまった。何をするでもなく。
「今夜はここまで。続きは……また、こんな機会があればね?」
姫君を扱うように丁重に身体を抱き上げ、魔法使いは、王子を寝室に運ぶ。
しかし、途中で、客室へと歩みを変えた。
小さな先客の右隣に横たえてやった。
「パパには、ここがお似合い」
寝台に腰を下ろし、二人の安らかな様子を見下ろして、笑う。
「さて。今夜最後の仕事をしなくては」
王宮魔法使いは、医師の家から姿を消した。
彼の弟に会いに行くために。
王宮の北、季節の花々に囲まれた、木造の小さな一軒家がある。
ベネディクトの弟、ファウナ王子の住まいだ。
深更。
すでに家の明かりは消えており、庭の花も香りをしまっている。小さな池では、カエルがころころと鳴いている。
魔法使いは玄関口に立ち、ファウナ王子だけに聞こえる声でもって、彼を呼びつけた。
王子はやや寝乱れた銀の髪を手でかきやりながら、戸口までやってきた。
「……なんだよ、こんな時間に?」
二人はそこで話をする。
王子の要望で、しばらくは新婚家庭には魔法使いを立ち入らせない、ということになっていた。そのため、王宮魔法使いであり新妻の叔母であるクリスティーナは、そこから先には一歩も踏み込まない。今、この時点では。
「お邪魔をしにきましたのよ。一日の終わりに見る顔は、私にしてくださいな」
「やっぱりか。お前らしいよ。今日は仕事でも私生活でも邪魔をするのか。さすがクリスティーナだ」
舌打ちする王子に、魔法使いは冷笑を浴びせる。
「私にはこれも仕事ですのよ? 夜の夜中に、誰が、わざわざ王子の寝とぼけた顔を見たいだなんて思いますの? あなたにも私にも同じように夜は来ますの。本来なら、私も眠っている時間帯だというのに、可愛い可愛いあなたのために、わざわざこうして仕事をしてやっているというのに。あなたときたら感謝するでも恐縮するでもなく可愛くない態度で、腹が立つったらないわ。本当に邪魔してやろうかしら。フロラに挨拶してから帰りましょうか?」
立ち入ろうと足を踏み出すクリスティーナに、王子が慌てた。
「ま、待てよっ、」
暗がりの中で、表情はわからないが、声がひときわ焦っていた。
「すまん。わざわざ夜中に私のためにありがとう。ご足労、いたみいる」
さっと謝る。兄とは違い、弟王子は、態度の翻し方を心得ている。棒読みではあるが。
魔法使いは、「まあまあの出来ですわねぇ」と軽くうなずくと、言った。
「それでは、王子が待ち焦がれた業務連絡に移らせていただきますわ。あなたのお父上から、『もう来なくてよい』と」
後はわたくしたちにお任せくださいな? と、付け加えられた言葉は、暗い夜が不釣合いなほどに明るかった。
「構造上の問題ではなく、やはり魔女がらみだったのか。それは可哀想にな」
同情に満ちたファウナ王子の言葉に、王宮魔法使いはにっこりと首を振る。
「いいえ。楽しいですわ?」
「お前はそうだろうとも」
可哀想なのは、お前たち師弟の相手をするはめになった魔女の方だ、と言いたかったが、ファウナ王子はなんとかこらえた。話を長引かせてはいけない。三日ぶりに逢えた愛妻が待っている。
クリスティーナは夜風に髪をなびかせた。
「さて、それでは失礼しますわ」
夜空を見ると、満天の星と、西に傾いた満月が、この季節には珍しく澄んでいた。
「明日は一日晴れますから、どうぞ二人だけで暮らす最後の幸せを満喫なさってくださいませ。それでは」
「ああ。おやすみ」
魔法使いは鮮やかに消える。
「ん?」
消えた相手が残した挨拶をはんすうして、王子は首を傾げた。
「あいつ、『最後の』って言わなかったか?」
魔法使いは、王宮で一番高い塔の天辺に腰を下ろし、煌々と輝く西の月を見つめて、ニヤリと嗤う。
「私を締め出せば、存分に蜜月を味わえると思っているのね。相も変わらず、頭の可愛らしい王子だこと。フフフフフ」
プリムラに石を持たせた。
それは、まだまだ未熟な弟子のためにもなり、王子の精神的成長にもなる。
ひいては、かわいい姪のフロラのためになる。
フロラが幸せでありさえすれば、いいのだ。
「よかったわねえ、フロラ」
まだ明けない東の空に向かってそうつぶやくと、魔法使いは塔から身を躍らせた。
月下に、金銀の髪が夢のようにきらめき、孔雀色の長衣が羽のように翻る。
そして、夜明け前。
魔法使いは、プリシラを挟んで、医師の向こうに横たわり、眠りについた。
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